いろんな名前の可能性 |
記紀を読むうちに、
同じ人物がいろいろな名前で登場している可能性を感じるようになりました。
個別の話はおいおいしていきますが、例えばこういうことです。
記紀記載の時代ではありませんが、記紀成立時に近い奈良時代、
和気清麻呂(わけのきよまろ)が道鏡の意に沿わない神託を報告したことで、
別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に改名させられて遠流されたことがありました。
こういうのは現在でも、
例えば、マスコミをマスゴミと読んだりと、今でもネットでよく見られるわけで、
人間心理の一例なんだと思われ、時代を越えて、
人である限りの普遍的基本的な相手の貶め方、持ち上げ方かと思います。
言語や名称、その表記方法などが統一され、
テレビやラジオ新聞など様々なものを通じて全国でそれが共有されている現在と違って、
当時は、エリアが変われば呼び方にも変化があったでしょうし、
気に入らない相手、敵対する相手であれば、「穢麻呂」的な名称で呼んだりしたはず。
当時、豪族などがそれぞれで伝えていた話を取り込んだであろう側面もある記紀は、
そういうことで、同じ人物が別の名前で登場している可能性は大いにあると思いますし、
私自身はそう思っています。
名前の付け方や表記の仕方が、
尊敬などのその人物への人々の思いや、
そこにあっただろう対立関係の存在を内包している、ということです。
また、同じ人物が別の名前で登場するということは、
1つの事実が違う立場を視点にして複数回語られている可能性もある、
ということでもあります。
記紀を読んでいて、人の感覚というのは変わるもんじゃないんだなぁと感じます。
違和感を覚えるような漢字の使い方、字面は、たぶん、
「穢麻呂」的な意味を持っているのだと思います。
「和気清麻呂」→「別部穢麻呂」を見ると、
「和気」→「別」漢字の持つ良い意味を同音の無意味なものにする変化や、
「部」を付けることで貶める意味合いがあること、
「清」→「穢」と良い意味合いを打ち消して、真逆の悪いものに変える、
など、参考になります。
* * * * *
遅ればせながら、
あけましておめでとうございます。
みなさまにとって良い1年となりますように。
拙ブログを読んでくださり、ありがとうございます。
今年ものんびり更新していきますので、どうぞよろしくお願いします^^
ところで、昨年9月ごろから、
ブログのアクセス数(ブログ訪問者数)表示がおかしなことになってます。
このブログは、内容も内容なので、アクセス数はとても小さいのですが、
連日、何百人、時には千人を超える表示が続きました。
ページビュー(訪問した人が見たページ数の合計)では相変わらず小さい数字なので、
実際にはいつも通りの小さいアクセス数なんだとは思うのですが、
毎日何ヶ月も異常な数値が続くと、さすがに本当に気持ちが悪く、
また、書く気もそがれ、困っています。
原因は全く不明なのですが、
ソーシャルツールとのアクセスを切ってみたり、
コメント欄を閉じてみたりなど、模索中です。
感想など知りたいので、コメント欄を残したく、
最新のエントリーだけコメント欄を開いてみたりもしたのですが、
やはりアクセス数の異常数値が復活したりしました。
そういうわけで、自身残念なのですが、
しばらくコメント欄を閉じさせていただきます。ご不便をおかけしてすいません。
他ブログへの引越しも現在考えています。
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