稲荷 の由来 |
日本全国にある神社、お稲荷さん。
昔から、なぜ「稲荷(いなり)」なのか、気になってました。
まず、
「稲荷 いなに」と書いて「稲荷 いなり」と読むのが気になる。
そして、
なぜ「稲荷」という字面&名称なのか、そもそものネーミングが気になる。
元が稲や米の神様なら、稲様とか苗様とか御米様とかの呼び方の方が、
豊穣への素朴な信仰をスタートとするならしっくりする。
もちろん、お祀りしているのは、
食べ物を司る神様「宇迦御魂(倉稲魂) うかのみたま」なのは知っている。
それなら、ウカノミタマ様とかミタマ様とかの俗称になりそうなのに、
実際の俗称は「稲荷 いなり」。
ちなみに広辞苑には、「稲生(いねなり)」が転じたものか、と出てる。
イネナリ様 → インナリ様 → イナリ様 って感じだろうか。
さすが広辞苑、初めにこの説を読んでたら、ここで落ち着いた気がしますが、
これにたどり着く前にいろいろ考えてしまったので、
以下、思ったところを書いていきます。
私は、「稲荷」のそもそもの由来は「稲置(いなぎ)」だと思っています。
稲置とは、『隋書』倭国伝によると、
有軍尼一百二十人猶中国牧宰
八十戸置一伊尼翼如今里長也
十伊尼翼属一軍尼
軍尼(クニ)一百二十人あり、なお中国の牧宰のごとし、
八十戸に一伊尼翼を置く、今の里長の如きなり。
十伊尼翼は一軍尼に属す。
ここに出てくる「伊尼翼」の「翼」の字は「冀(キ)」の誤りとされていて、
「伊尼冀(イニキ)」で「稲置(いなぎ)」のことだろうとされています。
クニが120人いる
(クニとは)中国の国守のようなものである
80戸に1つ稲置を置く
(稲置とは)里長のようなものである
10稲置で1クニに属す
また、允恭紀二年に
時闘鶏国造従傍径行之(中略)
皇后赦死刑貶其姓謂稲置
時に闘鶏国造、傍の径より行く(中略)
皇后、死刑を赦したまひて、其の姓を貶して稲置と謂ふ
闘鶏国造に無礼があったので、姓を国造から稲置に落とした、
という内容が書かれています。
隋書の言う「クニ」が「国造(くにのみやつこ)」を指すと思われ、
国造だった人物を稲置に落とした、という話です。
稲置とは、里長のようなもの、
つまり、小さい集落の長、村長さんのような立場で、
その集落を管理していた、特に、集落が生産する米の管理を行っていた、
そういう存在と考えられます。
隋書は7世紀半ばに記されたもの、
允恭天皇はいちおう古墳時代5世紀半ばごろの天皇とされています。
また允恭紀(日本書紀)は8世紀前半の成立です。
隋書を見る限り、隋書が書かれた時代には、
稲置はすでに大和朝廷の行政構造に組み込まれた役人といった感じですが、
そもそもは、集落で共同生産された米を管理する村の有力者、
というのが稲置の初期の姿と思われます。
村の有力者の居住地、または、有力者が管理する村の米倉のある場所は、
村の中心的な存在として、村の中では一番立派な施設だったと思われます。
収穫された米は、村の倉に集められ村の有力者が管理していた、
という弥生時代の、初期のころの稲作集落の姿が垣間見られます。
そして、もともとはその場所を「イナギ(イナキ)」と読んでいたんだと思います。
「イナギ」に「稲を置く」という「稲置」という文字を当てていることからも
それがうかがえます。
垂仁紀に、
時狭穂彦興師距之
忽積稲作城
其堅不可破
此謂稲城也
時に狭穂彦、師(いくさ)を興して距(ふせ)く
たちまちに稲を積みて城を作る
それ堅くして破るべからず
これを稲城(いなき)といふ
戦いの際、稲を積んで防御する、ということが書かれており、
その稲を積んで守りを固めた城を「稲城(いなき)」と呼ぶ。
有力者が管理する大切な施設のある集落の中心的な場所は、
稲城を築いて防御体制をとっていたことの名残が、その名前にあるような気がします。
有力者が管理する米倉を中心とした村の重要施設エリアは、
稲城を築いてしっかり守られていたことから、
その場所をイナキ(イナギ)と呼ぶようになって、
そこを管理する有力者そのものをイナキ(イナギ)と呼ぶようになり、
それが時代が下ると、村の管理者の役職的な名称「稲置(イナギ)」になっていった。
7世紀後半に制定された「八色の姓」では
稲置は第8番目の位として位置づけられる、というように、
自然発生的な村施設の名称兼有力者への名称という元からは離れてしまいましたが、
ある時代までは、名称自体は地位として存在していました。
そして、さらに時代が下って、
稲置という姓そのものが中央での行政的視点からはなくなっても、
それぞれの村では、
「稲置」と呼ばれた有力者の子孫の居所なり、
昔から米を集めて保管した施設なり、
もしくはかつて村の米倉が置かれていた場所なりを
相変わらず「イナギ様」と呼び続けた。
「イナギ」の「稲置」としての意味は失われても、
「米の管理を行っていたイナギ」の記憶は、
米の神様へと変化して捉えられていったと思われます。
また、
「イナギ」の意味がわからなくなっても呼び続けるうちに、
「イナギ」が「イナリ」に転化したり、
「イナギ」に字を当てるに当たって、
「イナ」が「稲」なのは感覚としてわかるとして、「ギ(リ)」の方については
似たような発音で かつ「稲」の文字と組合せて意味を持つ「荷」の字が
当てられていったんだと思います。
村々にお稲荷さんがあるのも、
農村の、田んぼにポツンとあるような小さなお社がお稲荷さんである場合が多いのも、
そもそもの農村部の中心的存在が「稲置(イナギ)」であり、
村の米の集積場所が「稲置(イナギ)」であったことから、
米を作る農村では「イナギ様(イナリ様)」をお祭りするものだ、
という信仰として消化され、型が出来上がっていったんだと思われます。
そういうわけで、お稲荷様のそもそもは、古代の姓の「稲置」であり、
さらに遡って、
弥生時代の米作り集落の形態にも由来した、
防御された大切な場所(施設)の名称であり、その管理者の名称でもある、という、
米作りが始まった当初の集落における米の管理体制も透けてみえる、
そんな歴史あるものだと、私個人は考えているのでした。
稲荷信仰でお祀りされている神様についてはこちら
稲荷の由来 の補足
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